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#東北でよかった

2017/04/27 一夜にしてツイートが14万件を超えたという、#東北でよかった。これほどまでに一言の受ける印象を逆手に取り、見事なうっちゃりを見せたことは最近あったでしょうか?東北は福島の生まれの者としては涙が出そうです。医聖と呼ばれた野口英世も福島県猪苗代の生まれでした。貧農家に生まれ、赤ちゃんの時の囲炉裏でのやけど以来ハンディを背負っていたにも関わらず、勉学にいそしみ、世界の野口と言われるほどになりました。私の幼少時は医師と言えばシュバイツアーかノグチかというほどでした。そんな野口も青年期は金使いも荒く、金策に追われる日々もあったとか。当時出版された'当世書生気質'という本の主人公 野々口精作が自堕落な生活を送るという物語でその名前が自分の名前(当時は野口清作)に似ていることも後世名前を英世と変えた要因のひとつだったとか。

The Soul of Japan

2017/04/26 明治時代、日本人独得の花鳥風月への想いにつながる日本人の精神、生活様式などを書いた英文の本がありました。その本は‘武士道 The soul of Japan’と名付けられ、世界中の知識人に評判になりました。その著者が新渡戸稲造です。5000円札の肖像画に選ばれた方ですから日本人なら一度は顔を見たことがあると思います。22歳の時に私費でアメリカ留学を果たし、広い世界観を持ち、その後、ついには国際連盟の事務次長にまでなりました。太平洋戦争直前には戦争反対に奔走しましたが思いはかなわず・・・・。今まさに混沌とした時代、グローバルな世界の中で日本人としていかに処すべきか問われています。日本人としての在り方に今一度、立ち戻る時期と考えるのは私だけでしょうか・・・。

道草庵

2017/04/20 今年入職した研修医の一人に松山東高等学校出身がいました。

初心忘るべからず

2017/04/19 4月の今、新入生歓迎会や新社会人歓迎会があちこちで行われています。昨日も当院を始め川崎幸病院、川崎幸クリニック3施設合同歓迎会が催されました。若者等は明日への希望に胸を膨らませ眼を輝かせていました。この気持をずっと持ち続けていただきたいと思います。

国策で幼い時に海を渡り女子教育に尽力した人

2017/04/14 明治初期 たった7歳で北海道開拓使派遣の5人の女子留学生の一人としてアメリカに渡った人がいました。その人物は津田梅子。ホームシックは並大抵のものではなかったと思いますが見事に勉学を成就し、帰国後は女子教育者の第1人者として活躍。今の津田塾大学を創設しました。国命とは言え、飛行機も、インターネットもない世の中でどんな思いでアメリカ暮らしをしていたのか・・・。そして帰国後も女子教育一筋に強い信念を持ち活躍したこと、頭の下がる思いであると同時に自分の甘さを思い知らされます。 それにしてもまだ幼い梅子に将来の女子教育を託したその人選の妙にもただただ感心するばかりです。

料理をこよなく愛した戦国武将

2017/04/12 戦国時代、上杉をはじめとした諸侯と対峙し、時には京都の人の度肝を抜く格好で上洛し、‘伊達男!’の異名をとり、秀吉の小田原攻めの際には勢力図をあまりにも読みすぎ、出足が遅く、秀吉のいかりを買い一時は命まであやうかった東北の雄、それが伊達政宗です。かれは戦国武将であったにも関わらず、茶、歌にも通じ、文化的な面もありました。特に料理は地元の食材を利用し創作し、今に伝わる‘ずんだ餅’‘伊達巻’そして‘仙台味噌’も政宗がその礎を築いたとされています。

今も伝わるワビとサビ

2017/04/05 以前このコーナーでお茶についてお話ししましたが(2016年7月22日アップ)、茶道は時代とともに様式、姿を変えてきています。しかしながらワビ、サビそしておもてなしの精神は変わらずに現代にも伝わっています。その祖となったのが千利休。あの戦国の世の中、誰につくかで命まで危うくなるそんな時代に、時代の流れを鋭く読み、信長、秀吉をはじめとした時の人にうまくつく一方であくまでも自らの精神を貫き通し、揚句は最後まで自分を曲げずに死を選んだ人でした。最期はどんな思いであったのか・・。無念か、はたまたこの世に残る人々に哀れすら感じていたのか・・・京都 山崎駅の目の前にひっそりとたたずんでいる待庵(たいあん)は彼が作った現存する唯一の茶室と言われていますし、高台寺の庭にある傘亭は彼の意匠の茶室と言われています。

リトアニアやイスラエルで通りの名前にまでなった日本人

2017/04/04 バルト三国の南端にあるリトアニア、その首都ヴィリニュスに日本人の名前が付けられた通りがあるのをご存知ですか?その通りの名前はチウネ スギハラ通り。同名の通りがイスラエルのネタニアという市にもあるそうです。第二次世界大戦中、外務省の命令に背いてまでも数千人というユダヤ難民たちにビザを発行し続けた人、それが杉原千畝(すぎはらちうね)氏です。彼はリトアニアの日本国公使として戦時中リトアニアに赴任。当時ヒットラー率いるナチスドイツによるユダヤ人迫害の真っただ中、一人でも多くのユダヤ人の命を救うべく、滞在中の最後の時間まで外務省の命令に従わず自らの判断で彼らにビザを発行し続けました。多くのユダヤ人はこのおかげで命拾いし、日本経由でアメリカをはじめとした自由社会に渡ることができました。戦後はそのご恩に報いるため多くのユダヤ人やその子孫は杉原の所在を知るため外務省に連絡したのですが、‘そんな日本人は外務省にいなかった’と突っぱねていたとか。2000年河野洋平外務大臣となって初めて彼の存在を認め名誉回復ができたとの事です。この話からうかがえること、杉原氏の人道主義への賞賛はもちろんですが、その存在すら隠ぺいしようとしていた政府の対応に、今の社会でも思い当たる節もあるだけに思いは複雑です。

プリンシプルとダンディズム

2017/03/29 町田市の鶴川地区、そこに第二次世界大戦参戦時にいち早く食糧難を予測し、都心部から疎開し自給自足の生活をしていたご夫婦がいました。戦後は宰相吉田茂を支え、日本人としての誇りを持ち続け、毅然としてGHQと渡り合い続けた人、常にプリンシプルを大事にし、加えて若かりし頃暮らしたケンブリッジで鍛えられたノブレス・オブリージュ(仏: noblesse oblige)をもって物事に対した人、それが白洲次郎でした。容姿もそうでしたが生き方がまさにダンディズムそのものでした。そんな彼にいつの頃からか惹かれ、彼について書かれた本を読み漁りました。そうそうゴルフ場でたまに見かける‘Play Fast’も彼の言葉。晩年軽井沢で伝統あるゴルフクラブの理事長をしていた時、自らがコースの手入れをしたり、時の首相ですらも頑としてその我儘を聞き入れませんでした。強い信念を持ち、原理原則を大事にし、権力にも屈せず、そして常にダンディズムを忘れず、、、今、政局が混とんとしている時、このような人物が求められていると思うのは私だけでしょうか。

敬天愛人

2017/03/27この言葉は'道は天地自然のものにして人はこれを行うものなれば天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛したもう故、我を愛する心をもって人を愛するなり。人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして人を咎めず、わが誠の足らざるを尋ぬべし’という意味です。まさに私利私欲なく大きな心を持てという意味。そして事あるときには自らのいたらなさが原因ではないかと思う事、教えられます。明治政府の中枢にいながら政治の腐敗を憂い下野し、国を愛する若者たちに担ぎ上げられ西南の役で亡くなった人。それが西郷隆盛です。その風貌から巨眼の男と称され、幕府軍側の勝海舟にも愛され、洗足池の勝夫婦の墓の隣には南洲神社まで創建されています。今の政治を見たら彼は果たしてどう思うでしょうか。