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鉱山開発と解体新書

2017/05/10 江戸時代に多芸多才な人物がいました。あらゆる分野に精通し、また発明家でもあり、画家でもあり、時には鉱山開発にもたずさわっていた人物 それが平賀源内です。かれは秋田の佐竹藩に招かれ鉱山開発をしましたが、その縁で今も数多くの武家屋敷が残る角館生まれの小野田直武なる人物に蘭画の技法を教えています。なんとその小野田があの有名な解剖書の解体新書(ターフェルアナトミア)の表紙絵や解剖図を画いていたとは・・・・思わぬところで鉱山開発と解体新書がつながるものです。鉱山開発と解体新書、一見なんの関連もないように思われますが、この間にあるのは’ご縁’・・・人とのご縁は大切にしたいものですね。

若者よ、外へ眼を向けよ!

2017/05/08 あの伊達男、伊達政宗の命をうけ、1600年代初頭にスペイン(当時のエスパーニア)に渡り、その後ローマ法王にまで謁見した男がいました。その名は支倉常長(はせくらつねなが)。彼は7年という年月をかけ、太平洋~大西洋を抜けスペインそしてイタリアまで旅し、その後無事帰国という偉業を成し遂げました。その精神力、行動力そして交渉力は今でこそインターネットが発達し、世界は狭くなったといっても、実際に外の世界を見ずに、島国日本にとどまっていることが多くなった若者たちに是非知っていただきたいことです。仙台の町を歩いていると支倉通りがあります。杜の都仙台を訪れ、しばし往時に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

#東北でよかった

2017/04/27 一夜にしてツイートが14万件を超えたという、#東北でよかった。これほどまでに一言の受ける印象を逆手に取り、見事なうっちゃりを見せたことは最近あったでしょうか?東北は福島の生まれの者としては涙が出そうです。医聖と呼ばれた野口英世も福島県猪苗代の生まれでした。貧農家に生まれ、赤ちゃんの時の囲炉裏でのやけど以来ハンディを背負っていたにも関わらず、勉学にいそしみ、世界の野口と言われるほどになりました。私の幼少時は医師と言えばシュバイツアーかノグチかというほどでした。そんな野口も青年期は金使いも荒く、金策に追われる日々もあったとか。当時出版された'当世書生気質'という本の主人公 野々口精作が自堕落な生活を送るという物語でその名前が自分の名前(当時は野口清作)に似ていることも後世名前を英世と変えた要因のひとつだったとか。

The Soul of Japan

2017/04/26 明治時代、日本人独得の花鳥風月への想いにつながる日本人の精神、生活様式などを書いた英文の本がありました。その本は‘武士道 The soul of Japan’と名付けられ、世界中の知識人に評判になりました。その著者が新渡戸稲造です。5000円札の肖像画に選ばれた方ですから日本人なら一度は顔を見たことがあると思います。22歳の時に私費でアメリカ留学を果たし、広い世界観を持ち、その後、ついには国際連盟の事務次長にまでなりました。太平洋戦争直前には戦争反対に奔走しましたが思いはかなわず・・・・。今まさに混沌とした時代、グローバルな世界の中で日本人としていかに処すべきか問われています。日本人としての在り方に今一度、立ち戻る時期と考えるのは私だけでしょうか・・・。

道草庵

2017/04/20 今年入職した研修医の一人に松山東高等学校出身がいました。

初心忘るべからず

2017/04/19 4月の今、新入生歓迎会や新社会人歓迎会があちこちで行われています。昨日も当院を始め川崎幸病院、川崎幸クリニック3施設合同歓迎会が催されました。若者等は明日への希望に胸を膨らませ眼を輝かせていました。この気持をずっと持ち続けていただきたいと思います。

国策で幼い時に海を渡り女子教育に尽力した人

2017/04/14 明治初期 たった7歳で北海道開拓使派遣の5人の女子留学生の一人としてアメリカに渡った人がいました。その人物は津田梅子。ホームシックは並大抵のものではなかったと思いますが見事に勉学を成就し、帰国後は女子教育者の第1人者として活躍。今の津田塾大学を創設しました。国命とは言え、飛行機も、インターネットもない世の中でどんな思いでアメリカ暮らしをしていたのか・・・。そして帰国後も女子教育一筋に強い信念を持ち活躍したこと、頭の下がる思いであると同時に自分の甘さを思い知らされます。 それにしてもまだ幼い梅子に将来の女子教育を託したその人選の妙にもただただ感心するばかりです。

料理をこよなく愛した戦国武将

2017/04/12 戦国時代、上杉をはじめとした諸侯と対峙し、時には京都の人の度肝を抜く格好で上洛し、‘伊達男!’の異名をとり、秀吉の小田原攻めの際には勢力図をあまりにも読みすぎ、出足が遅く、秀吉のいかりを買い一時は命まであやうかった東北の雄、それが伊達政宗です。かれは戦国武将であったにも関わらず、茶、歌にも通じ、文化的な面もありました。特に料理は地元の食材を利用し創作し、今に伝わる‘ずんだ餅’‘伊達巻’そして‘仙台味噌’も政宗がその礎を築いたとされています。

今も伝わるワビとサビ

2017/04/05 以前このコーナーでお茶についてお話ししましたが(2016年7月22日アップ)、茶道は時代とともに様式、姿を変えてきています。しかしながらワビ、サビそしておもてなしの精神は変わらずに現代にも伝わっています。その祖となったのが千利休。あの戦国の世の中、誰につくかで命まで危うくなるそんな時代に、時代の流れを鋭く読み、信長、秀吉をはじめとした時の人にうまくつく一方であくまでも自らの精神を貫き通し、揚句は最後まで自分を曲げずに死を選んだ人でした。最期はどんな思いであったのか・・。無念か、はたまたこの世に残る人々に哀れすら感じていたのか・・・京都 山崎駅の目の前にひっそりとたたずんでいる待庵(たいあん)は彼が作った現存する唯一の茶室と言われていますし、高台寺の庭にある傘亭は彼の意匠の茶室と言われています。

リトアニアやイスラエルで通りの名前にまでなった日本人

2017/04/04 バルト三国の南端にあるリトアニア、その首都ヴィリニュスに日本人の名前が付けられた通りがあるのをご存知ですか?その通りの名前はチウネ スギハラ通り。同名の通りがイスラエルのネタニアという市にもあるそうです。第二次世界大戦中、外務省の命令に背いてまでも数千人というユダヤ難民たちにビザを発行し続けた人、それが杉原千畝(すぎはらちうね)氏です。彼はリトアニアの日本国公使として戦時中リトアニアに赴任。当時ヒットラー率いるナチスドイツによるユダヤ人迫害の真っただ中、一人でも多くのユダヤ人の命を救うべく、滞在中の最後の時間まで外務省の命令に従わず自らの判断で彼らにビザを発行し続けました。多くのユダヤ人はこのおかげで命拾いし、日本経由でアメリカをはじめとした自由社会に渡ることができました。戦後はそのご恩に報いるため多くのユダヤ人やその子孫は杉原の所在を知るため外務省に連絡したのですが、‘そんな日本人は外務省にいなかった’と突っぱねていたとか。2000年河野洋平外務大臣となって初めて彼の存在を認め名誉回復ができたとの事です。この話からうかがえること、杉原氏の人道主義への賞賛はもちろんですが、その存在すら隠ぺいしようとしていた政府の対応に、今の社会でも思い当たる節もあるだけに思いは複雑です。